

——品田さんは’80-年代にラジオ関東(現RFラジオ日本)で『アメリカントップ40』を担当されていたんですよね。
「そうなんですよ。社員だったので肩書はディレクターでしたけど、実質はADで、資料整理から素材編集、お茶もいれてました」
——僕、聴いてました。
「ありがとうございます」
——当時は、ヒットチャートの力がすごくありましたよね。
「ありましたね。特に’80年代は、MTVが出てきて、洋楽の力がとても大きかったし、流行やファッションにも対応していて、音楽には結構影響力があったと思います。マイケル・ジャクソンやマドンナがいる一方で、イギリスからも新しいバンドがいっぱい出てきたりして。とても良い時代にお仕事させてもらいました」
——音楽の仕事をしたいという思いは、そのころ強かったんですか?
「そうですね。ちょっと自慢話をすると、僕のCDが出ているんですよ(笑)。中学のとき豊島十中にいて、ブラス・バンドが日本一だったんで、ソニーから『吹奏楽コンクール名演集』っていうのが出たんです」

——へぇ〜。
「大学の時も軽音楽同好会で、イカ天の審査員だった難波弘之さんと先輩、後輩で、一つ下に小林明子がいたので、ずっと音楽には接点がありましたね。で、そこで“オマエ楽器何やってたんだよ?”って聞かれると辛いんですけど(笑)、下手なラテンパーカッションやってました」
——ということは、中学生のときからずっと音楽好きだったんですね?
「音楽は、すごく好きでしたね。クラシックから、ロック、フォーク、ジャズ、ブルースまで、なんでも。大学のときにちょうどフュージョンだとか、ユーミンやサザンが出てきたし、その後はスティービー・ワンダーやアース・ウィンド・アンド・ファイアーが好きでした。でも、仕事を始めてからはどんどんミーハーになって、ディスコフリークに突入していきましたけど(笑)」
——ちょうど、ディスコ全盛期?
「うん。よく六本木に行ってブリブリいわせてたんです(笑)。ホント今思うと、とんでもないサラリーマン。でも、あの頃はそうでした」
——で、ラジオ関東の後に、日経BP社に?
「’87年でした。二十代のときはすっとラジオ局で過ごして、三十のときに転職したんです」
——それは、どういった理由からだったんですか?
「’85年にFM YOKOHAMAができたとき、あそこは社員30人で30億円っていう驚異的な売り上げになったんです。当時ラジオ関東って180人ぐらい社員がいたんですけど、これじゃ立ち行かなくなるってことで、社員を50人にするとか言って、どんどんアウトソーシングしていったんです。それで、結局社員は仕事しないでいいよ、みたいな風潮になっちゃって。で、“そろそろ別の世界も見てみたいな”って思うようになったんですね」
——日経エンタテインメントを選んだ理由は?
「やっぱり、毎日毎日放送していったあとに、何も残らない寂しさみたいなものがちょっとあったかもしれません。若気の至りみたいな勘違いも含めてですけどね。で、何かを形として残したい、良いものをきちんと取っておきたいって思ったときに、日経BP社がエンタテインメントの雑誌を作るということだったんです。アメリカのバラエティー誌やビルボード誌みたいな雑誌をつくるからといって人を募集していたので、中途採用の試験を受けて入ったんです」
——そういう意味では、エンタテインメントつながりで次の展開を、ってことでしたか?
「そうですね。あとは、実はディレクターやプロデューサーってスゴい、作品を作り出す人ってスゴいんだ、ってことも見えてきていたんです。ラジオって、そういう人達と接点があるのに、やっぱりアイドルの声を聞かせる方が優先されるじゃないですか。だから、そういった裏方さんがやっていることを何かの形で紹介したいって気持ちもありました。実は、仕事を始めてから、高校や大学のときに好きだったものは、世の中からすると全然売れないものだった、っていうことにも気づいたんですよ。そのときのショックは大きかったですね。それ以来、売れるっていうことや、30万、50万、100万の人達に伝わるモノをつくれる人達への尊敬や憧れが出てきたんです。もちろん、売れれば何でも良いってことではないんですけど、やっぱり100万の人に伝わるもの、100万の人達が時間やお金を使うことには何か素晴しいものがあるなって思ったとき、考え方が変わったと思います。あとは、どうやって人の心を掴んだり、揺さぶったり、笑わせたり、涙を流させたりするのかなっていうことにも興味がありましたね。それは今でもあります」
——ヒットの分析していくときには、どういう順番でやるものなんですか?
「よくそういった質問を受けるんですけど、“なぜヒットしたのか”は、英語に置き換えると“why”ですよね。でもそれって、みんなが好きで良いと思ったからってことに尽きちゃうんですよ。日経エンタテインメント!でやってきたことは、英語で言うと“how”の部分の追求なんです。どんな風に曲を作ったのか、どうやって多くの人に伝えるようにしてきたのかっていうことを丹念に見ていくと、ヒットのつくり方みたいなものがそこそこ見えてくるんですよ」
——そこには、共通するロジックがあるんですか?
「いつも同じではないんですけど、ヒットの方程式というのは、そこそこあるんですよ。絶対にうまくいくわけじゃないんだけど。一つ感じるのは、やっぱりつくっている人、歌っている人、関係者が、“これを伝えたい”という熱い想い、パッションがないとダメなような気がするんですよ。最初からマーケティング志向で、“最近こんなものがウケているからこんな風に”ってやっても、やっぱり売れないんです。と同時に、パッションがある一方で、買う人も満足してくれるっていうサービス精神。この二つが高い次元でバランスが取れていないとダメですね。その二つが揃ったときに、何かが回りだす気がします」

——そこをふまえて、音楽業界にはヒットを生み出すシステムみたいなものがありますか?
「ありますね。その点でスゴいなって思ったのは、BEINGの長戸大幸さんですね。ヒットのつくり方の基本は、パクリだって言うんです(笑)。“俺は誰々を聞いても、誰々のマネに聞こえる”って言うんですよ。つまり、オリジナルにこだわらないこと。まずは本人がインスパイアされたものがあって、それをマネしているうちに段々とオリジナリティーが出てくるんですね。そういうやり方を見て、パクれるセンスみたいなものをバカにしちゃいけないなって思いましたね」
——音楽業界では、パクれるセンスが重要な位置を占めているんですかね?
「そうですね。良いものを再現できる力と、それに自分達のオリジナリティーを加える力があれば良い方向に回っていくんだな、っていう風に見えます」





















