

——与田さんは、テレビのイカ天をご覧になっていましたか?
「当時、大学生でしたけど、観てましたねー。萩原健太さんとかのコメントが結構おもしろかった。バンドに関しては、 “何でこれが?”っていつも思っていましたね(笑)。“こいつら、ホントいいな”っていうバンドよりも、いつもちょっと面白いバンドの方が勝ち上がっていくんで、“こいつらを潰せー”って思いながら観ていましたよ(笑)。だから、僕はどっちかっていうと、消えていくバンドの方が好きでした。わりと音楽に対して真面目なんでしょうね。でも、たくさんのバンドがメジャーに出ていきましたよね。例えば、“たま”とか、マルコシアス・バンプとか、フライングキッズとか」
——そうですね。
「で、僕がレコード会社に入ってからも、イカ天で出てきたんだけどビギンに負けてダメだった、っていうバンドの人と仲良くなって、彼らに作曲や作詞を頼んでみたこともありましたね」
——では、当時からそういう審査員的な視点で番組をご覧になっていたんですか?
「音楽の仕事をしている人の視点とはちょっと違ったと思いますけど、どうせなら本物のバンドというか、音で勝負するバンドが勝ってほしいと思っていたんですよ」
——そういう意味では、レコード会社に入られる前から音楽に対しては真剣に向き合っていたんですね。
「自分でもバンドをやっていましたし、うちが音楽の仕事をしている家庭でしたからね。父親が作家だったんで、毎日毎日いろんなレコード会社の人が来て、この曲はどうだとか、いつも話をしていたんですよ。で、狭い家だったんで、そういう話を子供の頃からずっと聞かされて、裏側を見ながら育ってしまったんです。だから、音楽を聴くとき、どうしてもそういうことは考えていましたかね。まぁ、そういう仕事をしたいと思ってもいましたし」

——与田さんは、あのMISIAを発掘したことで知られていますが、その経緯を教えていただけますか?
「僕はレコード会社で一番若手だったんで、届いたデモテープを毎日チェックする作業をずっとやっていたんですよ。あとは、オーディションや新人のライブを観に行くのも、全部僕の仕事でしたね。そんな中、九州のJBCというテレビ局の『ドォーモ』っていう番組で、九州全域の大きなオーディションをやることになったんです。JR九州とJR西日本が協賛に入っていたんで、それぞれの駅にセットを組み、そこで公開オーディションをして、それを番組が追っていくというものでしたね。で、福岡、長崎、熊本、鹿児島と、ずっと周っていったんですよ。でかいイベントだったんですけど、ほとんど宴会旅行みたいなものでしたね(笑)」
——取り組みとしては、とてもおもしろそうですね。
「で、それを2年、3年やったんですけど、なかなか上手くいかないねってことで終わっちゃったんですよ。当たり前ですよね(笑)。ただ、4年目ぐらいの時に、九州でオーディションをやっていた方が、もったいないということで音楽学校をつくったんです。で、年に何回か生徒のお披露目のライブをやるから観に来てくれって言われて、行ったんですね」
——なるほど。
「でも、当時はやっぱりアイドル系の人達、特に女の子はアイドルを目指している人が多かったわけですよ。十代で、アイドル寄りの衣装を着て、ウーン?みたいな人がどんどん出てくる(笑)。でも、その中に一人だけ雰囲気の違う人が出てきて、ドリカムの曲を歌ったんです。しかも、地声の上の裏声(ファルセット)のさらに上をいく、マライア・キャリーがよく使う頭声(ホイッスル・ヴォイス)のような響きの声をすごく上手く使いこなしていたんです」
——それがMISIAだったんですね。
「こういう子は、見たことがなかったですね。で、その時に、“東京でデモテープ録らない?”って声をかけたら、彼女もちょうど大学一年生になった頃だったので、何度か東京に来てくれたんです。それで、デモテープを録っているうちに、“これはちょっと大変なことになるかもしれないぞ”、って思ったので、秋にはもう東京に住まわせました」
——プロデュースの方向性はどうやって決めたのですか?
「彼女の歌は、福岡時代に黒人のボイストレーナーについて習っていたことがベースになっているんですよ。彼女自身も、R&Bやヒップホップが好きで、ブレイクダンスのサークルに入っていたりしていたんです。でも一方で、当時はまだR&Bってものが世の中にそんなに出てなかった。もちろん洋楽ではかなり出ていましたし、R&Bやヒップホップが好きっていう人もたくさんいたんですけど、“誰が好きなの? どの曲が好きなの?”って聞くと、“うーん、何となく好き”っていう人がまだ多い時代でした。だから、“何となく好き”というモヤモヤしたところにドンピシャな音を落とし込めば一気にいくかなっていう、ちょっとあざといマーケティングの観点も持ちつつ、R&Bという切り口でやることにしましたね。具体的には、当時のアップデートされたR&Bを日本人が日本語で歌う、っていうのが基本的なテーマでした」
——なるほど。
「その頃のR&Bは、まだティンバランド系の音じゃなくて、もう少しコンテンポラリーなものだったんで、曲調、コード感、歌いまわしなど、日本のポップスに落とし込んでいくには、すごく良かったんですね。わりとヴァース、ブリッジときて、サビでドーンと盛り上げるような曲があった。だから、そういう匂いを出そうと試行錯誤して曲をつくってましたね」
——当時のR&Bは、ポップスとの親和性が高かったから、 それが日本の環境にもうまく当てはまってヒットしたということなんですね。
「そうですね。あとは、マライア・キャリーがデビューした時に、7オクターブの声というキャッチ・フレーズがありましたけど、MISIAも5オクターブくらいは出ていたんで、、一番最初はその点でも売り出すことにしましたね。あざとかったですけど、ふかしではなく、本当にリアリティーのあることでしたから」

——ちゃんと中身があったんで、あとは方向だけしっかりつけてあげればいい、という状態だったんですね。当時は、アンダーグラウンドのシーンもかなり盛り上がっていたので、クラブ側からも相当支持されていた記憶があるんですけど。
「マネージメント・サイドの人間がアンダーグラウンドに精通していたので、最初はMURO君とDJ ワタライ君にリミックスを頼みましたね。当時、彼らはまだ若手の方だったと思うし、リミックス作業にもすごく苦労していて、締切りギリギリになって焦ったんですけど、なんとかでき上がって、アルバムとシングルを出す前に、J-WAVEの夜のヒップホップ番組でかけたんです。で、それが、どんどん話題になっていきましたね。あと、渋谷のハーレムというクラブで、ワタライ君が火曜日にイベントやっていて、いつも一番最後にかけてくれていたんですよ。そこで、コアなクラブ好きの子の間から“何だコレって!?”って感じで広がっていって、いつの間にかアナログのレコード店を通して“何かすごいらしいよ”ってことになっていきました。そのアナログ盤が品薄・品切れになって、ネット上で売買されたりもしてましたね」
——プレミア価格が付いてましたもんね。
「で、そんな話でワーってなっているときに、12cmのマキシCDシングルと、8cmのCDシングルを発売したんです。8cmの方にはカラオケを入れて、ユーザーの線引きをしたんですけど、結果的に12cmの方がバーンと売れたんですよ。だから、“8cmのシングルはもういらないね”ってことになりました。当時、12cmのマキシCDシングルを出すというのはあまりなかったんで、その点では結構先駆けだったと思いますね」
——そうやってアンダーグラウンドからもメジャーからも火がついて、おもしろい形でヒットしていったんですね。
「そうですね。かなり特殊なケースだったと思いますね」





















